横浜国際平和会議場 中山 こずゑ新社長の考えるパシフィコ横浜が目指す国際的施設・人材の在り方とは

6月、中山こずゑ氏は、国内MICE施設で国際会議開催件数14年連続1位、参加者総数15年連続1位の実績をもつパシフィコ横浜(2016年度実績、JNTO発表)の社長に新たに就任した。
民間企業や公的機関でグローバルビジネスの最前線ともいえるポストを歴任し、活躍してきた中山氏に、これまでの経歴や一層の国際化を目指すうえでの考え方、パシフィコ横浜で働く社員への思いなどを聞いた。(見本市展示会通信9月15日号掲載)

 

代表取締役社長 中山こずゑ氏

 日産自動車時代から横浜市時代まで 

―民間企業や公的機関を経て、この度パシフィコ横浜の社長に就任されました。これまでの経歴について教えてください

出身校は慶応大学で、当時では珍しく修士号を取得して大学院を出ました。そして1982年、日産自動車へ入社し、経営企画の仕事をしていました。一番長かったのは商品企画の業務ですが、その時に東京モーターショーと出会い、晴海時代から幕張、そして東京ビッグサイトと毎回出展者として参加していました。ほかにもフランクフルト、デトロイト、パリ、ジュネーブを含めた当時の世界5大モーターショーは全て行っていましたし、ハノーバー、ニューヨークなどのモーターショーにもよく足を運んでいました。海外のモーターショーでは、お客様の調査、ライバル車の調査以外にも、会議が目的で訪れ、ブースの中や上階の会議室で打ち合わせなどを行っていました。

マーケティングやブランディングを手掛けるブランドコーディネーションディビジョン副本部長を務めていたころ、横浜市の林市長から文化観光局の立ち上げのために民間企業の経験者が必要ということで声をかけられました。林市長は、車業界出身で伝説的なスーパーセールスレディなだけあって誘い方も上手いんです。ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルで夜景を見ながら「きれいな夜景でしょ。これをもっと光らせることできると思うの」と言われ、まんまと乗ってしまいました(笑)。

そして2011年4月に横浜市へ入庁し、その翌年には文化観光局長に就任しました。そこから6年間にわたり局長を務め、横浜市の観光客と観光消費額を約2倍にすることができました。60歳を迎え民間企業に戻りたいという思いがあり、2012年の局長時代から社外取締役で関わっていたパシフィコ横浜で代表取締役社長を務めることが決まり、今に至ります。

2020年にアネックスホール横にオープンする新コンベンション施設「パシフィコ横浜ノース」は、2012年のころからPFI方式、コンセッション事業の推進など、議会にあげるために段階を踏んで取り組み、5年かかって着工に至りました。これをメインで進めていたのが私が局長だった文化観光局ですが、そのころはまさか自分がパシフィコ横浜の社長になるとは思っていませんでした。

社外取締役だったころから、パシフィコの経営状態を俯瞰的に把握しており、負債を抱えながらも民間企業が運営する施設としては頑張っている、という印象を持っていました。

今後は民間ならではの強みも認識していますので、条例等に縛られない、幅広い提案をしていきたいと思います。

―これからはもっと柔軟な発想でやっていきたいということでしょうか

そうですね、いくつかアイデアはあります。広さや大きさでは他のアジアの施設や国内の大きな施設にかないません。ですから質で勝負すると言いますか、例えば文化を発信するとか、異業種同士が化学反応を起こすようなハブとなるように、そういうことができるのが本来のMICE施設の役割だと思っています。ですから単なる貸館でなく「ここに来ると新しい発想が生まれるよ」と、プラスアルファの魅力を付けていくことで、アジアでオンリーワン、ナンバーワンの施設にしたいというのが就任時の大きな思いです。

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